「野菜たち」ってなんだ?
私はドイツと日本を行ったり来たりしながら、日本語でドイツに関する文章を書いたり翻訳したりする仕事をしています。
そういう境遇にいるので、日本語の微細な変化や流行語の変遷がとても気になることがあります。
最近というかもうここ数年、特に気になっているのが「〇〇たち」という言い方。
私の知人に、子ども時代のほとんどを外国(おもに米国)で過ごしたため、いろいろとユニークな日本語を話す日本人がいました。彼女は、鉛筆が数本あるとそれをただ「鉛筆」とは言えないんです。
「そこにある鉛筆たち取って!」と言っては、純ジャパに笑われていました。
単数形と複数形が明確に分かれている言語で育っているから、「どっちでもいい」という感覚が気持ち悪かったのだと思います。
それは30年くらい前の話。このようにかつて「鉛筆たち」というのは、英語にやや引っ張られ気味の冗談のような日本語だったわけです。
そしてそれから、30年という月日が流れ去りました。
この期間を私はほとんどドイツで過ごし、単数形と複数形が分かれているドイツ語環境で生活してきました。
私は20歳を過ぎてからドイツに住むようになったのですが、そこからドイツ語を長期間かけて習得し、それを生活の中で使っていく中で、自分の頭の中で日本語とドイツ語の部屋を住み分けることも学ぶようになりました。
どちらかの言葉を話しているとき、もう一方の言語に影響されることはあっても、「分けよう」とする意識が常に働くわけです。
しかし、時々日本に帰ってくると、日本で使われている日本語の方がゆるくなって変化していました。
「写真たちを送りますね」
「きれいなお花たちをありがとうございました」
「おいしそうな野菜たちですね」
こういう人格のないものにも「たち」をつける言い方が、めっきり増えてきましたよね。最近では地上波のアナウンサーがそのように言っているのを聞くくらいなので、かなり市民権を得た感があります。
複数形というと、日本語を勉強していたドイツ人の友人たちが一合枡のことを「ハコス」と呼んでいたのを思い出します。
真四角で箱のような形だから「ハコ」。それが複数になると「ハコス」。
また、ある著名な日本人の舞台演出家がイタリア公演をしたときに、舞台衣装の着物が入った段ボールに「Kimoni」と大書きされていたそうです。
イタリア語では名詞の語尾が「o」の場合、複数形だと「i」に変化するそうで、イタリア人スタッフがキモノを複数形にしちゃったんですね、それで「キモニ」。
「野菜たち」も「ハコス」も「キモニ」も、日本語以外の別の言語感覚に引っ張られているところに、おかしみがあり、どこかかわいい。
でもそれが、ふつうの日本語のように流通し始めると、こちらは不穏な感じがして心がざわついてくるわけです。
そのように悶々としていたところ、応用言語学の専門家である村端佳子氏が、文学表現としてすでに以前からこの「○○たち」が使われていたと指摘されていました(宮崎国際大学教育学部『教育科学論集』第 6 号(2019)15−27 頁15:日本語の複数標識 に見られる英語の影響−「 たち」 が 表象する 個別 化 の観点から、村端佳子)。
井上ひさしが2011年に言及していたところによると、ノーベル文学賞作家の大江健三郎が「書物たち」という記述をしていたそうです。
イタリア文学者でもあった作家の須賀敦子の著書で『遠い朝の本たち』(1998年刊)というのもありました。
歌謡曲でも小椋桂の作詞した「愛燦燦」の中に「未来たち」「過去たち」という表現がありました。美空ひばりのシングルがリリースされたのは1986年ですね。
その単語自体に人格がない無生物名詞に対しても、特に思い入れのあるものに情感込めて「たち」をつける文学表現は、古くはすでに1940年代から見られたということです。
こんなふうに言葉というのは変化していくのだなぁと、その現場を目撃したことに感銘を覚える一方で、私にはいまだに「野菜たち」という日本語が冗談のようにしか聞こえず、その一線を越えることができずにいます。