「車椅子乗車拒否」で感じた深い溝
日本の車椅子ユーザーでコラムニストの伊是名夏子(いぜな・なつこ)さんが書いた「JRで車いすは乗車拒否されました」というブログ記事が激しく物議をかもしていて、いわゆる炎上状態になっているのを見て、いろいろと考えさせられました。
車椅子ユーザーが日常生活を送る上で、いかに多くの不便と不自由がつきまとうのか。伊是名さんの記事は、そのことを身をもって社会に示す問題提起的側面を持つ一方、彼女が一歩も譲らず自分の権利を主張して押し通す姿に、驚きと違和感を感じた人も多くいたようです。
私はというと、たとえばこのことが起こった舞台を小田原からドイツに置き換えてみたとき、「伊是名さんのような人は、普通にいそうだなぁ」とも思いました。
ドイツでもバリアフリー化の進度は駅によって程度が異なるため、車椅子ユーザーが鉄道利用するための取り決めとしてドイツ鉄道は事前連絡を求めています。これによって、「旅の計画を一緒に立てましょう」というスタンス。ちなみに、ベビーカー利用者や体の不自由がある人など、介助を必要とする人全般もこの対象になっています。
しかし予想外の事態というのはいつでも起こり得るものなので、この場合の対応がどうなるのかというところに、その社会の共通認識、あるいはコンセンサス(合意)が大きく表れると思います。そしてインフラが、車椅子ユーザーの存在を想定して作られているかという点も気になります。
伊是名さんの言動に反発を覚えた人たちの多くは、彼女を「モンスタークレーマー」呼ばわりし、「自分の個人的な都合で無理難題を要求して、しかも感謝しない人」と受け取っていたように見えました。
一方で、伊是名さんを擁護する側の人たちの大半は、「健常者が普通に享受できている公共サービスは、障がい者にも享受できる権利があるはず」という、基本的人権に基づく考え方だったと思います。しかし今回の場合、賛成派・反対派双方の間には深い溝が横たわっており、分かり合うための前向きな議論が、少なくともTwitter上で始まるとは思えませんでした。
伊是名さんが正しいか、正しくないかで論議しても不毛な感じがして、そもそも批判派は「正当性」よりも「礼儀正しさ」「謙虚さ」「感謝の心」を伊是名さんに求めているように見えました。
話し合いのテーブルに着く前に(そもそも話し合いのテーブルに着きたいのなら)、この深い溝を埋める必要があるのではと考えながら、あれこれ関連コメントを漁っていたら、乙武洋匡さんが発信されているのを見つけました。
車椅子ユーザーという当事者目線からの感じ方を知りたかったし、障がいがありながらも高い自己肯定感を持って生きている(ように見える)乙武さんの見解に興味があったので、noteの記事1本が1000円と高額でしたが購入して読んでみました。
一言で言うならば「読んでよかった」と思える記事でした。
問題のポイントを3点に絞り込み、車椅子ユーザーからの視点と反対側からの視点の両方向に立ち、なぜこの炎上と呼ばれるような齟齬(そご)が起きたのかがわかりやすく分析されていました。
この記事、より多くの人が読めたらよいと思うのですが1000円は高過ぎ(同額で、乙武さんの定期購読マガジンの購読申し込みを進めています)。私の希望としては、乙武さんがこの内容のことをもっと多くの場で発信される機会があるといいなと思っています。
有料記事なので、あまり中身を引用し過ぎてはいけないのですが、乙武さんは8年前に「銀座イタリアン事件」と呼ばれる騒動を起こしていて、その時に感情的にTwitterに思いをぶちまけたことを後悔している、ということにも言及しています。
車椅子ユーザーであることを理由に予約していたレストランの入店を断られ、その顛末をツイートしたところ炎上したというた話ですが、「もっと建設的な議論につなげられる問題提起ができなかっただろうか」と振り返っています。
しかし一方で、多くの車椅子ユーザーはこのように思いがけないところで排除される経験を日常茶飯事でしているはずで、その怒りや悔しさ、悲しさを時にはぶちまけてもいいのではないかと個人的には思いました。
私たちは、よりよい社会を作っていこうと思ったら、歩み寄らなければならないこともたくさんありますが、一方で、ぶつかり合うことで戦って勝ち取っていかなければならないものもあるはずだから。それはスマートな戦い方ではないかもしれないけれど、目的に到達するためには「スマートかスマートでないか」は、二の次な時もあると思うのです。
ただしそういう戦いはしんどい。当事者の辛さをよく知らずに「戦え!」という権利はこちらにはないですが、個人的にはそういう生身の体験談を聞ける機会は非常に貴重だと感じています。
何年か前に、ベルリン在住の弁護士で、ご自身も車椅子ユーザーであり、身体障がい者の権利のために長年戦ってきたドイツ人のインタビュー記事を読んだことがありました。
彼は、駅などの公共施設のバリアフリー化を実現するためにアグレッシブに戦ってきた人で、「そうすることで結局今、健常者の人たちもバリアフリーインフラの恩恵を受けていることを知ってほしい」と主張していました。
また、私には聴覚障がい者のドイツ人の友人がいますが、彼女は自分の権利のためならとことんやり通すようなファイターで、知り合ったばかりの頃は「めんどくさいなぁ」と思うこともしばしばありましたが、結果的に彼女から教わることは少なくなかったです。
こういう戦う障がい者たちの姿を見ていると、ドイツ人の多くが「公正さ」というものを重んじ、自分にどのような権利があるのかをはっきりと認識し、そして議論慣れしていることの強みを感じます。そういう土台の上に、今の社会が作られてきたのだなと。
そしてドイツの場合はナチス時代に、精神疾患を抱えた人たちを政策的に死に追いやった黒歴史があるため、ハンディキャップゆえに不平等が生じることに対して社会全体がとても敏感なのだと思います。
彼らは排除や人権侵害が積もり積もっていった先に行き着く最悪のグロテスクなケースを、身近な歴史の中に知っているから。
それで話を伊是名さんの件に戻しますと、一連の出来事で私が感じたことの一つは、日本社会の車椅子ユーザーや、ハンディキャップを持つ人たちに対する共通認識はどうなっているのだろうか?ということでした。
いや、車椅子ユーザー以前に、東京などの大都市でベビーカーで公共交通機関を利用することにも不安がつきまとうという話を聞くたび、何かしらハンディのある人、弱者を当たり前のように排除し、彼らに忍耐を強いることが共通認識になってはいないのか、そしてすべての人が平等に尊厳を持って生きられる権利、幸福を追求する権利が、制度や教育に十分落とし込められていないのではないかと感じます。
私たちは一体、どんな社会に住みたいと思っているのか?そしてどんな世界を後世に残したいのか?
乙武さんが有料記事の中で繰り返し述べていたことの一つが「もっと議論が必要」ということでした。
すべてはプロセスの中にあり、私たちは完成された理想世界に住んでいるわけではないと、こういうことがあるたびに気づかされます。
前述の聴覚障がい者の友人と知り合ってから一度日本に帰国した時、実家の母の聴力が衰えていて、彼女に対して必要とされた気遣いが、母にもそのまま当てはまることに気づきました。
弱者的な立場に置かれた人を排除するのでなく包摂していく社会は、きっと現時点ではハンディキャップを抱えていない人にとっても住みやすい社会であるはず。今回の出来事のような不協和音が社会に生じたとき、その原因が一体どこにあるのか、お互いの何をもっと改善することができるのか、立ち止まって考える余裕のある社会であってほしいと願います。