「いじめ」を容認するあいまいな空気について
東京オリンピック・パラリンピックの開会式楽曲担当だったミュージシャンの小山田圭吾さんが、学校時代に障害を持つ同級生に対して虐待行為をしていたことと、大人になってからそのことについて語ったインタビュー記事が問題になり、辞任に追い込まれました。
一連の話を読んでいて私が思い出したのは、そういう「いじめ」の周辺には、そのことを容認しているあいまいな空気がある、ということでした。そのことについて改めて考えてみました。
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2021年の東京オリンピックが、たぶん主催者側の意図とはまったく異なるところでとてもエポックメイキングなことになっています。
私はといえば、ミュージシャンの小山田圭吾さんが東京オリンピック・パラリンピックの楽曲担当を降りた一連の騒動あたりから、過去の個人的なトラウマ体験がいろいろと思い出されているわけですが、そういう思いをしている人って世の中に結構たくさんいるような気がします。
小山田さんが学校時代にしていたという凄惨ないじめ(というより同級生に対する犯罪的な虐待行為)に比べれば、どんくさい子どもだった私が小学校6年生のとき、転校した先の学校のクラスで一時期クラスメート全員に無視されたとか、わざと聞こえるように悪口言われたとか、そんなの全然程度が違うんですけれど、物事の分別ができない小学生がおもしろ半分に弱いものいじめをしてそれがエスカレートしていく怖さは、私もほんの少しだけ身をもって感じたことがあります。
子どもにとっては学校が世界のすべてだから、その中で生き延びるためには人権を蹂躙されても耐えようとしてしまう時がある。
小山田さんはたぶん、クラスの人気者だったのではないでしょうか。人気者と「友だち付き合い」ができるなら、いじめられても悪ふざけの延長だと思って耐えてしまうというのはよくあることです。それは配偶者やパートナーのモラハラに似ています。
しかし本当に怖いのは小学生のバカ男子ではなくて、そういった無知から来る残虐性を抑止できない周囲のあいまいな空気の方です。そんなことを改めて思い出していました。
そして思い出したついでに、しまいこんでいた自分の負の思い出をしっかり弔ってあげたいという気持ちになっています。
私は、だれかが「いじめ」という名の下に不当に尊厳を踏みにじられている場面を目にしたら、それを見過ごさずに声を上げるようにしたいといつも考えています。自分がそのあいまいな空気に絶対に加担しないために。
今回、小山田さんの学校時代のいじめ加害体験の酷さと、大人になってから公共の場で語ったそのことに対する認識が問題になったわけですが、小山田さんみたいに「なぜ人間の尊厳を踏みにじってはいけないのか」ということを学んでこなかったような人が、ミュージシャンとして愛や恋について歌い、NHKのEテレの番組を担当していたという、そういう世の中のあり方に薄寒いものを感じました。
それにしても、小山田さんのことも含めて今回の、直前になって露呈した東京オリンピック・パラリンピック主催者側の不祥事の数々は、そういう日本社会のいやな空気を作ってきた構成要素を一つ一つサンプル提示してくれているものでした。
・東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗元会長による女性蔑視発言→辞任
・森氏後任の橋本聖子氏のセクハラ問題
・開閉会式総合統括・佐々木宏氏の「オリンピッグ」発言→辞任
・開会式楽曲担当・小山田圭吾氏の「いじめ」問題→辞任
・開会式ディレクター小林賢太郎氏の「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」→辞任
男尊女卑、セクハラ、外見を揶揄するルッキズム、弱いものいじめ…こういう卑劣な思考や言動をする人たちが日本社会の中心にいて、「多様性と調和」をビジョンの一つに掲げて平和の祭典オリンピックを開催しようとしているわけで、結構な地獄絵図です。
日本社会に良識的な人がいないわけでは決してないけれど、社会全体がこういうものを問題視せず、人間の残虐性や下劣さ、不平等さを容認し続けている状況においては、運が悪ければいつ自分が被害者になってひどい目に遭うか分からないわけで、そしてひどい目に遭ったとしても、そこに救いはないという絶望的な風景が広がっているわけです。
私は、バブル全盛期の80年代後半に日本で学生時代を送りましたが、心のどこかにそういう社会に対する絶望感が常にあって、そんなことだからベルリンの壁が開いたのにつられて思わずドイツに来てしまったという経緯の持ち主です。
ドイツ社会にだって問題がないわけではなく、いじめや偏見、人種差別、さまざまな矛盾が存在します。
でもこの国では、責任や影響力のある立場にある人が人間の尊厳に関わる問題発言や行動をした場合、市民社会に決してそれを容認しない抑止力が強く働く、という場面をいくつも見てきました。
政治家の反応もすばやいです。なぜなら、そのような人の擁護をしようものなら即座に支持率に影響し、次の選挙に負ける可能性が出てくるから。
社会のトップがそういったことに対して毅然とした態度を取ることの意味は、とても大きいです。なぜならそれが社会の規範を作っていき、子どもたちはその土台の上に学んでいくものだから。
今回、東京オリンピックにまつわる主催者側のもろもろの問題点に対し、Twitterをはじめとするオンライン世論が日本で大きな役割を果たしました。
これは2020年5月に起こった「#検察庁法改正案に抗議します」というTwitterデモが、法案を頓挫させたのと同じ流れのように見えます。
選挙では投票権を持っていても、自分一人の声が何かを変えられるとは信じにくい。
でもTwitter上ではだれか一人の声が何か大きなものを動かすことだってある。
そしてそれは決して「名もなき一人」の声ではない。私たち一人一人には名前があるのだということ、守られるべき尊厳があるのだということ。今回のオリンピックは図らずも、私たちに改めてそのことを教えてくれたような気がします。
*冒頭の写真はドイツのアルゴイ地域の森の中です。森のように自浄作用あって持続可能な社会に住みたい、という願いを込めて。